【1998年 長野】冬季オリンピック開催地決定の瞬間

歴代開催地アーカイブ

1991年6月15日、イギリスのバーミンガムで開催された第97次IOC総会で、1998年冬季オリンピックの開催地が長野に決まりました。

日本での冬季オリンピックは1972年の札幌に次いで2度目の開催です。

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開催地発表の瞬間

日本時間午後10時55分。フアン・アントニオ・サマランチIOC会長が封筒を開封し、開催都市の名前を読み上げました。(動画は2:15から)

“Now, I’d like to announce the winner……. The city of NAGANO!!”

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3度目の正直 ― 名古屋・札幌の敗北を越えて

日本のオリンピック招致は、1988年大会の名古屋、1992年大会の札幌と、苦い敗北が続いていました。後がない日本が最後に託したのが「長野」でした。

当時は、既存施設が充実し完璧な運営能力を誇るアメリカのソルトレイクシティーが圧倒的に有利とされていました。

対する長野は、まだ見ぬ施設への期待と、マスコット「スノーレッツ」に象徴される自然との共生、そして欧米での大会が続いた冬季五輪に「次はアジアで」という大義を掲げました。

雨が降りしきる善光寺の境内で、深夜に大型スクリーンを見守り祈り続けた市民の熱意。それが、バーミンガムのIOC委員たちの心を動かすことになります。

善光寺の鐘と「一校一国運動」

長野の勝因は、経済力や運営面以上に、「心に訴えかける活動」にありました。特に、長野がIOCに示した新しいオリンピック運動が、一校一国運動でした。

県内の小中学校が参加国の中から担当の1ヵ国を決め、その国の文化を学び、会場で選手たちを家族のように熱心に応援する一校一国運動。

これが、良く言えば理想主義的、悪く言えば建前重視のIOC委員の琴線に触れました。

一校一国運動は、次のシドニー大会からIOCの公式プログラムとなり、現在も続く長野大会のレガシーになります。

伝説の「キモノ」作戦

決戦の地・バーミンガムに、長野は大招致団を送りました。そこで展開されたのが、今でも語り草となっている「キモノ作戦」です。

IOC委員が宿泊するホテルの一室や、貸し切りの会場を借り、そこで着物姿の女性たちが、ロンドンの高級デパートから空輸した寿司や最高級の日本酒を振る舞ったのです。

当時はまだIOCによる招致運動の規制が緩やかで、各都市が趣向を凝らしたパーティーを開くことはよくありました。しかし、「キモノ作戦」は、単に「日本の体験を提供」するだけではなく、IOC委員一人ひとりの嗜好を徹底的にリサーチしたうえでの、「計算し尽くされたおもてなし」でした。

これが、最後の浮動票の獲得につながったと言われています。

開催決定とその後…ソルトレイクシティーの暴走へ

決定の瞬間のテレビ中継の同時通訳。「長野が…」と一瞬声が上ずりました。今でもこの瞬間は多く人の記憶に残り、YouTubeで繰り返し再生されています。

バーミンガムのIOC総会会場では、長野招致団が総立ちとなり、市民が大型スクリーンを見守っていた善光寺では歓喜の鐘の音が響き渡りました。

一方、4票差で敗れ、呆然と立ち尽くしたソルトレークシティー招致団。

長野より優れていたはずなのに、なぜ?」が、「長野に勝つためには、長野以上のことをやらなければならない」という「教訓」になり、後にIOC委員の除名に発展する、2002年誘致合戦の大スキャンダルへと発展していきます。

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投票結果

5都市で争われた投票は、最後まで過半数を得る都市がなく、5回戦までもつれ込む歴史的な大接戦となりました。長野は終始リードを保ったものの、最終投票はわずか4票差という薄氷を踏むような勝利でした。

開催都市の決定は以下のルールで行われます。

  • 投票の過半数を取った都市があればその都市に決定
  • 過半数の都市がなければ、最下位の都市を落として再投票する
都市名1回目1回目(最下位決定)2回目3回目最終投票
長野 (日本)21303646
ソルトレイクシティー (米国)1559272942
エステルスンド (スウェーデン)182523
ハカ (スペイン)195
アオスタ (イタリア)1529
参考情報源(References)
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